なぜタイのCAは“運び屋”になるのか — 報酬8,800バーツと40年続く「ラップ・ヒウ」文化

なぜタイのCAは“運び屋”になるのか — 報酬8,800バーツと40年続く「ラップ・ヒウ」文化

2026年6月25日、タイ国際航空の客室乗務員(26歳)が、乗務で到着したメルボルン空港で逮捕されました。持っていたトートバッグ12個の裏地から、あわせて約1kgのヘロイン。末端価格は50万豪ドル、日本円でおよそ5,600万円ぶんです。

彼女がこの「荷物」を運ぶ報酬として提示されていた金額は、8,800バーツ(約4万円)でした。

罪状は輸入と所持の2件で、それぞれ最高刑は禁錮25年。8,800バーツと引き換えに、最悪の場合は人生のほぼ全部を失うことになります。

このニュース自体は日本語メディアでも報じられたので、ご存じの方も多いと思います。ただ、タイに25年住んでいる僕からすると、この事件は「一人のCAが魔が差した」という話には見えません。背景には、タイで40年続いてきた「ラップ・ヒウ」という文化があります。タイ語圏の報道や掲示板(Pantip)を掘っていくと、日本語の報道にはまったく出てこない、この事件の土台が見えてきました。

今回はその話を書きます。

事件のあらまし:Facebookの「ローズ」さん

まず事件の経緯を整理しておきます。

タイ側の捜査によると、彼女に運搬を依頼したのは「Rose」と名乗るFacebookアカウントでした。依頼内容は「OTOP商品(タイの一村一品運動の特産品)20kgぶんをオーストラリアへ運んでほしい」。報酬8,800バーツで合意し、彼女は12個のトートバッグを預かって乗務便に持ち込みました。バッグの裏地にヘロインが縫い込まれていたわけです。「Rose」のアカウントは、逮捕の報道が出た直後に削除されました。

彼女が中身を知っていたのかどうかは、まだ分かっていません。タイの麻薬取締委員会(ONCB)は「知らずに運ばされた可能性」も視野に調べています。銀行口座に不審な入金はなく、毎月実家に1万バーツを送金し、学生ローンを返済中——という生活実態も報じられています。一方でタイの首相は「薬物と知っていたはずだ」と厳しいコメントを出していて、タイ国内でも見方が割れています。次回の公判は2026年9月14日です。

ここまでが事件の表側。ここからが本題です。

「ラップ・ヒウ」とは何か

タイ語に「ラップ・ヒウ」という言葉があります。「ヒウ」は手に提げて運ぶこと、「ラップ」は引き受けること。つまり「頼まれた品物を代わりに買って、手荷物で運んであげる商売」です。日本語でいうと購買代行とハンドキャリーを足したものが近いです。

いまのタイでは、これが完全にひとつの職業になっています。FacebookやInstagramに個人の代行ページがあり、料金表が公開されています。相場は服1着60バーツ、バッグや靴は1点100バーツといった具合。フリーランスのマッチングサイトにも「なんでも代行購入します。手数料350バーツから」という正式カテゴリがあります。

日本のマツモトキヨシも定番の仕入れ先で、友人や親戚の注文品(単価100〜200バーツの化粧品や薬)に1個30バーツの手数料を乗せて運ぶ、という実例がタイの掲示板に載っています。「利益率30%なら、4回に1回税関に没収されてもまだ儲かる」という書き込みもありました。

で、この商売の元祖が誰かというと——航空会社の客室乗務員なんです。

起源は1980〜90年代のCAの副業だった

元スチュワードのタイ人タレントが、当時をこう回顧しています。

「男性乗務員は服が少ないから、スーツケースに空きができる。それを無駄にしないんだ。お客さんの注文どおりに海外の店を回って、化粧品、ブランドバッグ、時計を買う。そしてみんなで梱包して、担いで帰ってくる」

購入額に「カー・ヒウ(持ち帰り手数料)」を上乗せして転売する。これがラップ・ヒウの原型です。まだ海外旅行が高嶺の花で、並行輸入もECもなかった時代、「毎週海外に行ける人」が持つ物流能力はそれだけで商売になりました。

タイのCAは今も昔も花形職業ですが、待遇は時代とともに下がってきました。タイの報道では「天使が地に落ちた時代」という言い方をされるくらいで、給与の目減りをラップ・ヒウ収入で補うのが半ば公然の慣行になっていきます。

会社側はもちろん公認していません。タイ航空の新人研修では「他人から荷物を絶対に預かるな」と、麻薬密輸の実例動画まで見せて繰り返し教育してきたそうです。それでも慣行は消えなかった。なぜ消えなかったのかは、後半で書きます。

ドンムアンの「ジェーレーン」という店

この文化を語るときに、バンコクの人がよく名前を挙げる店があります。ドンムアン空港の近く、ウィパワディー・ランシット通り沿いにある化粧品店「ジェーレーン」です。

創業者は中国系移民家庭出身の女性で、ドンムアン空港向かいの市場の露店から身を起こし、14歳・元手1,200バーツで商売を始めて、いまや7階建ての自社ビル(1〜5階が売場)を構える「百億バーツの女帝」——という立志伝の持ち主です。往時の客層について、バンコク・ポストは「エアクルー、大学生、バンコクの高所得の女性たち」と書いています。空港の目の前という立地で、乗務員たちが通った店なんですね。

タイの掲示板Pantipの古いスレッド(2014年)に、この店の位置づけを一言で言い当てたコメントがあります。

「ジェーレーンこそ、税金を払わない『持ち帰り品』のグレービジネスを、税金はちゃんと納めるグレーマーケット(大手代理店を通さない並行輸入)に引き上げた人物だ」

つまり、乗務員の鞄の中の非公式な物流を、店舗を構えた並行輸入ビジネスへと産業化した存在——というのが当時の消費者の認識だったわけです。念のため書いておくと、この店自体に摘発や違法行為の報道は見当たりません。ラップ・ヒウという文化が「怪しい副業」から「街の商売」へ格上げされていく過程の、象徴みたいな存在です。

ちなみにこの創業者、後年タイ航空のCAを「空中の使用人」と呼んで労組から公式抗議を受けて謝罪したり、40年連れ添った夫に7億バーツ払って離婚(本人いわく「自由を買った。3年で稼ぎ直せる」)したりと、逸話に事欠かない人です。

なぜCAは運ぶのをやめられないのか

事件のあと、Pantipにはタイ航空の構造問題を論じるスレッドがいくつも立ちました。読んでいて唸った書き込みをいくつか紹介します。

まず経済構造。

「1件8,500バーツなら、往路で3件、復路の買い付けで3件。1往復で5万バーツになる。月に何往復飛ぶか考えてみろ」

月収に匹敵する副収入が、本業の移動のついでに手に入る計算です。しかも一般人と違って渡航費はゼロ。掲示板でも「一般人は航空券代で利益が消えるが、CAは飛ぶこと自体が仕事だから丸儲け」と指摘されています。

次に、会社との暗黙の共犯関係を突いた書き込み。

「会社は乗務員に手荷物30kgの枠を与えておいて『運ぶな』というのは矛盾だ。福利厚生の一部として片目をつぶってきたんだよ」

そして雇用構造の変化。昔のCA契約は45歳まででしたが、いまは3年+3年の最長10年程度の契約が主流で、30歳前後で「翼を失う」と言われます。あるコメントはこう書いていました。「昔のCAは金持ちの子女がステータスでやる仕事だった。いまは普通の家庭の子が家族を養うためにやる仕事で、経営再建で減った給料を副業で補い、リスクを取る」。飛べるうちに稼げるだけ稼ごうという心理が働く、というわけです。

スレ主の一人は「昔は機内のスプーンやナイフ、酒を持ち出して売る乗務員もいた」とも書いていて、まあ、身も蓋もない話です。

麻薬組織はその構造に付け込んだ

ここまで読むと、麻薬組織側の視点が見えてきます。「毎週国境を越え、手荷物30kgの枠を持ち、荷物を運ぶ副業を公然と宣伝していて、収入を欲しがっている人たち」の名簿が、SNS上に料金表付きで公開されているんです。これを利用しない手はない、と考える人間が出てきます。

実際、今回の事件は単発ではありません。

直前の5月には、絹のブラウスに縫い込まれたヘロイン6kgがタイ北部からプーケット在住のタイ航空乗務員に送られ、オーストラリアへ配送される寸前だった事件が起きています。この乗務員は「オンラインで配送サービスを宣伝していた。今回が3件目の配送だった」と供述しました。

さらに3月には、キャリア20年超の元CAが自宅にヘロイン9kgを保管していて逮捕される事件もありました。この人物は2024年から運び屋を副業にし、2025年には退職して専業化。他社のCA仲間にオーストラリア行きの運搬を仲介までしていたと報じられています。逮捕後、自宅にはさらに覚醒剤7kg入りの小包が配達されてきたそうです。

今回の事件のあと、別の航空会社のCAが「自分も同じような依頼のDMを受け取った」と証言しています。正体不明のアカウントが、複数の航空会社のCAに向けて、オーストラリアへの運搬依頼を送っていたことも分かってきました。

もうひとつ、構造的な穴も指摘されています。スワンナプーム空港の説明によれば、出国時の手荷物検査は爆発物の検知が主眼で、薬物のチェックは主に帰国便での麻薬探知犬に頼っているそうです。「タイから出ていく薬物」は、システムの隙間にいたわけです。事件を受けてタイ政府は、乗務員やパイロットへの検査を乗客と同等に厳格化する方針を打ち出しました。タイ航空も懲戒調査委員会を立ち上げています。40年続いた「片目をつぶる」時代は、この事件で終わるのかもしれません。

日本人にとっても他人事ではない

この構図、どこかで見たことがないでしょうか。SNSで「荷物を運ぶだけの高収入バイト」に応募して、気づいたら犯罪の実行役にされている——日本でいう闇バイトと同じ構造です。

実際、外務省は海外での闇バイトについて繰り返し注意喚起を出していますし、タイ発イギリス行きのスーツケースを頼まれて運んだ日本人が、中から大量の違法薬物が見つかって現地で拘束された事例も実際に起きています。国によっては薬物密輸は死刑です。中国では日本人がすでに8人、薬物密輸で死刑になっています。

タイ在住者や旅行者として覚えておくべきことは、突き詰めればひとつだけです。

中身を自分で確認していない荷物は、誰のためであっても運ばない。

「お土産を実家に届けてほしい」「現地の知人に渡してほしい」——タイに住んでいると、この種の頼まれごとは本当によくあります。僕も何度も経験があります。悪意のないケースが99%でしょう。でも、トートバッグの裏地に縫い込まれていたら、外から見ても分かりません。そして税関で見つかったとき、「知らなかった」を証明する責任を負うのはあなたです。8,800バーツどころか、無報酬の親切でも同じことが起こり得ます。

タイ航空の新人研修が40年言い続けてきた「他人から荷物を絶対に預かるな」は、乗務員だけでなく、国境を越えるすべての人への言葉だと思って、この記事を書きました。

(事件の記述は2026年7月10日時点の報道にもとづいています。逮捕された客室乗務員の裁判は係属中で、有罪が確定したわけではありません)

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