2013年10月、ラオス航空のビエンチャン発パクセー行き ATR-72-600 機がメコン川に墜落し、乗員5名と乗客44名の49名全員が亡くなるという事故があった。
事故当日、パクセー空港の南西方向からは嵐が近づいていた。飛行機はパクセー空港に一度降りようとしたが断念。再度着陸を試みる途中でメコン川岸の地面に激突し、機体はメコン川の流れに落ちた。
この事故については日本語の情報があまりないようだ。この記事では、ラオスの航空当局が出した事故報告書を紹介するとともに、ラオスで伝え聞いた事故に関する話を伝えたい。
目次
ラオス航空当局による事故報告書の内容
ラオスの航空当局は、事故から約1年2ヶ月後に、事故調査報告書を公表した。
リンク:ラオス航空当局による事故報告書(英語)
報告書は英語5ページに短くまとまっている。読んでみたところ、航空関係の略語が多くて少し戸惑ったが、内容はわかりやすいものだった。内容を簡潔に紹介したい。
- 事故機の機長:57歳のカンボジア人で、飛行時間5,600時間、そのうちATR-72の飛行時間は3,200時間のベテラン
- 副操縦士:22歳のラオス人で、フランスで訓練を終え、事故の2週間前に免許を取ったばかりだった
- 機材:ATR-72 600型機。同年4月に認証を受けたばかりで、飛行時間758時間の新品
事故の状況を再現すると次のようになる。事故機はビエンチャン空港を離陸し、パクセー空港に着陸するために高度を下げていた。通常は、最低高度を990フィートに設定してから、目視で空港を確認して着陸する。しかしコクピットに備え付けてある航空図が間違っており、本来なら990フィートとなっているべき最低高度が、645フォートと記されていた。そして機長はなぜかそれよりも低い600フィートに設定した。
このとき現場では激しい雨が降っていた。機体に当たる激しい雨の音がフライトレコーダーに残っている。パクセー空港に近づいたとき、機長は着陸を諦めて、着陸復行することを決めた。このとき、本来は真っ直ぐ上昇するところを、機長はなぜか右旋回した。旋回すると高度は下がる。機体は地上に近づき、地上接近警報装置の警報が鳴る中で、高度は60フィート(=18m)まで下がったとき、機体は右に大きく37度の角度で傾いていた(報告書にはないが、このとき地面に生えている木や竹を翼が切ったそうだ)。
次に機長は機首を上げた。このときの機首の角度は最大33度に達し、機体は高度1,750フィートまで上昇した。このとき、水平を示す計器は不安定になり、雲の中で周囲も見えなかったため、機長は感覚を失い、機体が上下どちらを向いているのかわからなくなったようだ。その後機体は急激に落下する。メコン川の中洲に一度激突してから、メコン川の水中に没した。エンジンは最後まで通常の出力を保っていた。
事故の「もし」
事故から1年2ヶ月が経った2014年12月、事故調査の結果を伝えるTVニュース(英語)
事故は複数の出来事が組み合わさることで起きる。
着陸復行のとき、副操縦士はフラップの調整に気を取られていて、本来すべき高度や機体の角度の確認ができなかったようだ。また、ベテランのカンボジア人機長と、新米のラオス人副操縦士で、緊急時の意思疎通はうまくいかなかったのかもしれない。副操縦士が状況を的確に把握して機長に伝えていれば、機長は飛行機を立て直せたかもしれない。
もし雨が降っていなければ、正しい航空図があったら、機長が着陸復行で右に旋回していなかったら、機長が飛行機を立て直すことができていたら、、、このうちひとつでもあれば、事故は起きなかったもしれない。
事故調査報告書では、これらを改善点として指摘している。この事故の教訓を活かし、今後の事故防止につなげてほしいものだ。
水没した航空機を探せ
ここからは、先日ラオスで会ったある人から聞いた話だ。その人は事故現場で捜索活動をずっと見ていた。聞いた話のうちのいくつかを、差し支えない範囲でここに書き記しておきたい。
墜落した飛行機は、メコン川の中洲に激突し、中洲の周辺には飛行機の破片や乗客の荷物が飛び散った。ただし機体は大きくバウンドし、後でわかったのだが大きく3つに割れて、メコン川に墜ちた。10月のメコン川は1年で最も水量が多く、水は濁っていて、1メートル先も見えない。水面から見ただけでは、水中のどこに機体があるのかはわからなかった。
救助と捜索のためにラオス人が集まってきたが、潜水用の機材が全くなかったため、何もできなかった。その後、隣国のタイからダイバーたちが来て、水中の捜索を始めた。流れが早く、破損した機体にでも引っかかったら二度と上がってこれない。数日間、慎重に捜索したが、どうしても機体は見つからなかった。
モン族の呪術師
そのとき、ひとりのお爺さんが手助けを申し出た。お爺さんは潜水の機材を何も持っていない。身体一つで潜水し、沈んだ機体を見つけてくるという。危ないからダメだと言っても、どうしてもやると言って聞かない。現場の責任者は、お爺さんから一筆取った上で、試しに潜ってもらうことにした。
お爺さんは船から水中に潜った。潜水の道具を何も持っていないのだから、普通は数分で上がってくるはずだ。しかし1分、2分、3分経ってもお爺さんは上がってこない。5分、10分、20分経っても上がってこない。もう溺れてしまったと皆が諦めかけた1時間後、なんとお爺さんは再び水面に顔を出した。
そしてお爺さんは、機体を見つけたと言う。そこにいた機体をよく知っている人が、機体のどこにロープを結ぶのかを説明すると、お爺さんはロープを持ってまた水中に潜り、ロープの端を持って上がってきた。そのロープを砂利トラックで引っ張ると、大破した機体が陸に上がった。皆がお爺さんを探したが、お爺さんはもうどこにもいなかった。あれはモン族の呪術師だと皆が言った。
一部のラオス人は、事故で発生した雨雲は、モン族の呪術師の呪いだと信じている。
もうひとりの呪術師
この話を聞く直前に、「老検死官シリ先生がゆく」という本を読んだ。
この本の舞台は、1976年のラオス・ビエンチャン。共産党による革命が成功し、右派が逃げ出した首都で、シリ先生はラオス国内で唯一の検視官を務めている、御年72歳のご老人だ。そのシリ先生が事件の謎を解いていく--というミステリー小説だ。ラオスに興味がある方はぜひ読んでほしい。
そして実は、シリ先生はモン族の呪術師である。シリ先生は死者を見て、死者と会話することができる。ラオス人は、南部のモン族は呪術を使うと信じている。それをこの本と、この事故の話によって、ほぼ同時に知ることになった。
僕はラオスとは10年以上のつきあいになるが、呪術の話は聞いたことがなかった。それをなぜこのタイミングで同時に知ることになったのか、とても不思議に感じている。
プルメリアの花と客室乗務員
ところで、プルメリアの花はご存知だろうか。ラオスの国花で、ラオス語ではチャンパーと言う。
チャンパーは幸運の象徴とされ、ラオス航空機の尾翼には、このチャンパーの花が描かれている。また、ラオス航空の女性客室乗務員は、髪を後ろで束ねて、チャンパーの花飾りをつけている。
事故機に乗っていたチーフキャビンアテンダントは、搭乗する前に、SNSに写真を投稿していた。その投稿は、金2バーツ(30.4g)を買った、実家に戻ったら両親にプレゼントする、という内容だった。
彼女のカバンは、メコン川岸に打ち上げられているのを、付近の住民が見つけた。こういった状況では、荷物は持ち去られることが多い。かつて隣国のタイで飛行機事故が起きたときは、現場からカバンや機材が持ち去られ、事故調査に支障がでるほどだった。
しかしこの事故では、住民は死者の祟りをひどく恐れ、誰ひとりとして荷物を盗まなかった。彼女のカバンも戻された。カバンの中の金もそのまま残されていた。金2バーツは約15万円相当、現地の給与なら4~5ヶ月分といったところだ。普通に失くしたら絶対に帰ってこないだろう。
彼女の遺体は、メコン川岸で見つかった。発見されたほぼ全ての遺体がひどく傷ついていたにもかかわらず、彼女の遺体だけはまったく傷ついていないように見えた。クルー用の椅子に座り、シートベルトを付けたまま、まるで眠っているように見えた。髪にはチャンパーの花飾りがついたままだった。
事故で亡くなった方のご冥福をお祈りします。