
タイで走っている車の4台に1台が、中国ブランドになった。
3年前までは考えられなかったことだ。バンコクの街を走る車といえば、トヨタ、ホンダ、いすゞ、三菱。タイの道路は日本車の博覧会みたいなもので、日系メーカーのシェアは9割を超えていた。それが今、BYDのATTO3やドルフィン、MGのZS、GWMのORAが当たり前のように走っている。ショッピングモールに行けば、ど派手なBYDのショールームがフロアの一等地を占めている。
僕はタイに住んでいるから、この変化を肌で感じている。でも、日本のニュースで報じられる「中国EVが日系を脅かす」というストーリーは、実態の一面しか捉えていないと思う。
実際にはもっと複雑で、もっと面白いことが起きている。
この記事で僕が掘り下げたいのは、こういうことだ。
タイの自動車産業で起きているのは、単なる「日系の衰退」ではない。「日系6割・中国3割・その他1割」という新しい均衡点に向かう構造的シフトであり、しかも中国勢同士の淘汰がすでに始まっている。
事実関係はJETRO、日本総研、野村総研、住友商事グローバルリサーチなど約12件のニュースソースとレポートに基づいているけど、分析や将来予測の部分はあくまで僕個人の見方として読んでほしい。
「東洋のデトロイト」 ― 60年の栄光
タイの自動車産業は1957年のいすゞ進出に始まる。トヨタ、三菱、日産、ホンダが相次いで工場を建て、2001年にはタクシン首相が「東洋のデトロイト」構想を打ち出した。
結果は驚異的だった。
- 2000年から2017年にかけて生産量が383%成長
- ピーク時(2012〜13年)には年間約250万台を生産
- 日系サプライヤーだけで推定700〜800社がタイに拠点
- 部品メーカー2,200社以上、雇用42万人以上
- 自動車・トレーラー産業がGDPの約11%を占める
つまり、タイの自動車産業はほぼイコール日本の自動車産業だった。ここまでは、本当にいい話なんだよね。
何がこの構図を壊したのか
転換点は2022年だ。タイ政府がEV振興策「EV3.0」を施行した。BEV購入者に最大15万バーツ(約68万円)の補助金を出し、輸入関税・物品税も減免した。
中国EVメーカーはこれに機敏に反応した。いや、「機敏」なんてレベルじゃない。怒涛だ。
BYD、MG(上海汽車)、GWM(長城汽車)、NETA(哪吒汽車)、AION(広汽埃安)、長安汽車、奇瑞汽車…。わずか2〜3年の間に18ブランド以上がタイ市場に参入し、次々と現地工場を建設した。中でもBYDはラヨーン県に年産15万台の工場を建設し、179億バーツ(約806億円)を投じている。
なぜ中国メーカーはタイに殺到したのか。理由は3つある。
- 中国国内の過剰供給 ― 中国国内のEV市場は飽和状態で、海外に出口を求めざるを得なかった
- 西側の関税引き上げ ― EUや米国が中国EVに高関税をかけ始めた。タイに工場を建てれば、ASEAN経由で関税を回避できる
- タイ政府の手厚い優遇策 ― 補助金、関税減免、物品税引き下げと、中国メーカーにとって至れり尽くせりの環境
そして彼らは、日本メーカーが絶対にやらなかったことをやった。徹底的な価格破壊だ。
BYDの主力SUV「ATTO3」の価格推移を見てほしい。
- 2022年11月(発売時): 約119万バーツ(約530万円)
- 2025年9月: 約70万バーツ(約310万円)
わずか3年で4割以上の値下げ。日本のメーカーではまず考えられない価格戦略だ。NETAのNETA Vに至っては約50万バーツ(約220万円)で、日系の小型ICE車より安い。
数字が語る激変
この3年間で何が起きたか、数字で見てみる。
市場シェアの変化:
| 2021年 | 2024年 | 2025年(1〜10月) | |
|---|---|---|---|
| 日系 | 約90% | 76.7% | 69.8% |
| 中国系 | 5%以下 | 18.1% | 22%超 |
| BEV市場の中国系占有率 | – | 85.3% | 80%超 |
日系メーカーの撤退・縮小:
- スバル: タイ工場閉鎖(2024年末)
- スズキ: 四輪生産から撤退(2025年末まで)
- ホンダ: 2工場を1つに統合、年産能力を5割以下に削減
- 日産: 約1,000人の人員削減
- ホンダ: 通期利益見通しを5分の1に引き下げ
BYDはいまやタイの全販売4位(シェア7.8%)で、三菱(4.5%)を上回っている。バンコクモーターショー2025では、BYDの予約台数がトヨタを史上初めて上回った。
一方で、タイの自動車市場そのものが縮小しているのが日系にとっては本当につらいところだ。
- 2024年の国内販売: 57万2,675台(前年比26.2%減、過去15年最低)
- 2024年の生産台数: 147万台(前年比20%減)
- ピーク時の250万台から4割低下
つまり日系メーカーは、縮む市場の中でシェアも奪われるという二重苦に直面している。
見落とされている「もう一つの問題」 ― 家計債務
ここで、日本のメディアがあまり報じない重要な背景がある。タイの家計債務問題だ。
タイの家計債務のGDP比は88.4%(2024年末)。ASEANの中でも突出して高い(マレーシア66.5%、シンガポール48.4%)。コロナ禍のピーク時には96.5%に達した。中央銀行の目標は80%だけど、達成には5〜10年かかる見通しだ。
もっと具体的に言うと、2024年9月の全国調査(1,300人対象)では:
- 1世帯あたりの平均債務: 60万6,378バーツ(約273万円)(前年比+8.4%)
- 約50%が緊急時の貯蓄なし
- 46.3%が支出>収入の状態
そして自動車ローンのNPL(不良債権)比率は11.3%(2025年3月)。要注意債権(1か月以上延滞)は2023年末に14%に達し、全ローンカテゴリーの中で最悪の水準だった。
正直、タイの自動車市場が低迷している最大の原因は、中国EVの参入よりもこの家計債務問題だと僕は思う。車を買いたくても、ローンが通らない。通っても返せない。そういう人がめちゃくちゃ多い。
政府も手を打ってはいる。2024年12月には80万バーツ以下の自動車ローンに最大3年間の利息免除を発表し、2025年4月にはピックアップトラック向けに500億バーツの信用保証プログラムを開始した。でも、構造的な問題はそう簡単には解決しない。
サプライチェーンの地殻変動
完成車メーカーの話ばかりが注目されるけど、実はもっと深刻なのはサプライチェーンの変化だ。
中国系自動車部品メーカーは、2019年まで数十社だったのがいまや約150社に急増し、さらに100社以上が進出予定だ。彼らはバッテリー、モーター、ギア、コネクター、アルミ部品、高圧ケーブルまで、EV関連のあらゆる分野をカバーしている。
ここで重要なのは、中国系部品の価格は日系より2〜3割安いということだ。金型に至っては5割も安い。しかも中資系OEMは中国語での商談が基本で、「端から日系部品メーカーは外す」という姿勢すらあるという。
結果として、タイ自動車部品工業会(TAPMA)の加盟650社のうち、2023年に24社、2024年に6社が閉鎖。中堅メーカーの「Yarnapund」は2024年末に倒産し、840〜900人が解雇された。
ただし ― ここは見落とされがちだけど ― 中国系OEMの実際の現地調達率はわずか約5%にすぎない。「40%」という数字はフリーゾーン規定の抜け穴を使ったもので、実態はほぼ中国製部品のノックダウン組立だ。タイへの技術移転はほとんど起きていない。
僕が思うのは、この「国産化率5%」という現実が、いずれタイ政府と中国メーカーの間の摩擦になるだろうということだ。2026年からバッテリーセルの輸入に関する優遇措置も終わるし、中国企業にとってタイでのコストは上がっていく。
トヨタの反撃と、中国勢の自滅
じゃあ、日系に全く希望がないかというと、そうでもない。
トヨタは本気で反撃に出ている。
2025年8月、タイで「ヤリスエイティブ」ハイブリッドを71万9,000バーツ(約333万円)で発売。同社のタイ市場における最安HVで、中国EVの価格帯に真っ向から勝負を挑んだ。さらに11月には新型ハイラックスのBEV版をタイで世界初公開。いすゞもD-MAXのBEVを2025年からタイで量産開始予定だ。
トヨタのHVは16年の実績がある。リセールバリュー、保険の入りやすさ、洪水時の安心感(タイではこれが地味に重要)。EVの3年の歴史とは信頼の厚みが違う。タイ政府もHEV向け物品税優遇(6〜9%、2026〜2032年)を導入し、事実上日系のHV戦略を後押ししている。
一方で、中国メーカー同士の淘汰が始まっている。
NETAは2023年にEV市場の12%を持っていたのに、2025年上半期には4%に急落。2025年6月に親会社が破産申請した。ディーラーへの未払い奨励金は約1,600万バーツ。タイで買ったNETAのオーナーたちは、アフターサービスの行方に不安を抱えている。
長安汽車の会長は「2026〜2028年に中国EV企業の60〜70%が生き残れない」と発言している。18ブランド以上が乱立する現状は、明らかに持続不可能だ。
BYDでさえ無傷ではない。ATTO3の度重なる値下げに、先に高い値段で買った消費者が反発し、集団訴訟の可能性まで浮上している。3年で4割以上値下げしたら、そりゃ怒るよね。
これからどうなるのか ― 3つのシナリオ
最後に、僕なりの今後の見通しを書いておく。これは完全に推測だ。
シナリオ1: 新均衡(最も可能性が高い)
日系メーカーは「6割シェア」で安定し、HVとピックアップで牙城を守る。中国勢は淘汰が進み、BYD・MG・GWMの3強体制に収斂。タイ市場は「日系6割・中国3割・その他1割」の新しい均衡に落ち着く。
根拠: 日本総研も同様の予測(EV比率30%でも日系6割)を出している。タイ政府のHEV物品税優遇(2026〜2032年)が日系のHV戦略を後押しする。中国勢同士の価格戦争は2026〜2027年にかけて沈静化する見通し。
シナリオ2: 中国支配
中国メーカーの技術力(特にバッテリーと自動運転)が決定打となり、シェア40〜50%に到達。日系は5割を切る。ファーウェイの自動運転システムがタイにも到来し、ソフトウェア面での差が決定的に。
根拠: BYDの世界販売460万台達成(フォード超え)、海外販売+150.7%の勢い。タイ工場からのEU輸出が2026年に52,000台に拡大予定。ただし家計債務問題によるEV需要の伸び悩みがブレーキになる可能性あり。
シナリオ3: ベトナム型巻き返し
中国EVの品質・アフターサービス問題が露呈し、日系がローコストモデルで巻き返す。かつてベトナムの二輪車市場で、中国シェア77%→日系76%へ逆転したのと同じパターン。
根拠: NETAの破産、BYDの集団訴訟問題、中古EVのリセールバリュー低下。ただし、今の中国EVメーカーの技術力はかつてのベトナム二輪車メーカーとは次元が違う。BYDの資金力とグローバル戦略を考えると、完全な巻き返しは難しいと思う。
タイに住んでいて思うこと
今回いろいろ調べてみて、一番印象に残ったのは「国産化率5%」という数字だ。
中国メーカーが何千億円もの工場を建てている。でも中身はほぼ中国から持ってきた部品を組み立てているだけ。タイの労働者を雇ってはいるけど、技術移転はほとんど起きていない。日系メーカーが半世紀かけて作り上げた2,200社・42万人のサプライチェーンとは、根本的に違う。
タイの消費者にとって、BYDの車は魅力的だと思う。実際に街で見かけるATTO3やドルフィンはデザインも装備も良くて、価格も安い。でも3年で4割値下げされたオーナーの怒り、NETAの破産で宙に浮くアフターサービス、EV中古車のリセールバリュー問題。こういう「見えないコスト」が、これから表面化してくるんじゃないかと思う。
結局のところ、タイの自動車産業は「どちらが勝つか」ではなく、「どう共存するか」の時代に入ったんだと思う。日系がHVとピックアップで守り、中国がEVで攻める。トヨタすら中国サプライヤーに依存する。その複雑な織物の中で、タイという国が「アジアの自動車生産拠点」としての地位を維持できるかどうか。それが本当の問題だ。
「東洋のデトロイト」の看板はまだ残っている。でもその中身は、半世紀ぶりに書き換えられつつある。
この記事は、JETRO、日本総研、野村総合研究所、住友商事グローバルリサーチ、KPMG、タイ国家EV政策委員会発表資料など約12件のニュースソースとレポートを参照して個人的にまとめたものです。


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