タイに資産を残して亡くなったら、家族はどう受け取るか【日本人向け・2026年版】

タイに資産を残して亡くなったら、家族はどう受け取るか【日本人向け・2026年版】

タイに長く住んでいる方の年金一時金の申請をお手伝いしていると、ときどき「実は父がタイで亡くなったんですが、口座がまったく動かせないんです」というご相談を受けることがあります。銀行に電話すると、家族の口座はすでに凍結。書類の窓口に行くと、タイの裁判所の命令書を持ってきてくださいと言われる。何をどこから手をつけたらいいのか分からず、日本の家族と電話をつなぎながら途方に暮れる——という場面です。

日本と違って、タイでは家族の誰かが亡くなっても、銀行の残高が自動的に家族へ渡るわけではありません。土地でもコンドでも車でも証券でも、原則としてタイの裁判所で「遺産管理人(Administrator)を選任する命令書」を取ってからでないと動きません。この命令書を取るまでに、書類の翻訳や大使館認証も含めて半年から1年かかるのが標準的です。その間、口座は凍結、コンドの管理費は請求され続け、家族は日本から手続きを追いかけることになります。

この記事は、タイに銀行口座・コンドミニアム・株式・車などを残して日本人が亡くなった場合に、家族側でどんな流れが待っているのかを、2026年時点の実務でまとめたものです。個別の遺言書作成や訴訟の進め方は弁護士さんの領域なので踏み込みません。あくまで「入口の地図」として、事前に何を準備しておくと家族が困らないかの見取り図です。

目次

1. タイの相続法(民商法典 第6編)の基本

タイの相続は民商法典 第6編(1935年制定)で定められています。日本の民法とよく似ていますが、家族関係の扱いや遺言形式に固有の違いがあります。

法定相続人の順位

民商法典 第1629条により、法定相続人は次の6順位です。

  1. 直系卑属(子)
  2. 直系尊属(父母)
  3. 全血の兄弟姉妹
  4. 半血の兄弟姉妹
  5. 祖父母
  6. 叔父・伯父・叔母・伯母

上位順位に相続人が1人でもいれば、下位順位は相続権を失います。配偶者は特別規定で常に相続人となり(第1635条)、同順位の他相続人と組み合わせで法定相続分が決まります。子がいれば子と同じ一人分、子はいないが親や全血兄弟姉妹がいれば遺産の2分の1、それもいなければ全部、という設計です。

日本人配偶者の扱い

日本人夫婦が長くタイに住まれているケースだと、婚姻届は日本にしか出していないという方が多いです。この場合、タイ側では配偶者として登録されていない状態になるので、相続手続きで配偶者関係を立証する必要があります。実務では日本の戸籍謄本を在日タイ大使館で認証(レガリゼーション)してタイ語に翻訳して裁判所に提出する形になります。タイはハーグ条約非加盟なので、日本の法務局のアポスティーユではなくタイ大使館経由の認証が必要な点は要注意です。

タイ人と結婚されている方は、タイ側の婚姻登録(Kor Ror 2/Kor Ror 3)があるかで手続きの重さがまた変わります。

遺言の5形式

民商法典 第1656〜1663条で、次の5形式の遺言が認められています。

  • 通常書面遺言(第1656条)——本人署名+証人2名。弁護士事務所に頼めば標準的にこれ
  • 自筆遺言(第1657条)——全文本人手書き+日付+署名。証人不要だが真偽争いに弱い
  • 公正証書遺言(第1658条)——郡役場(Amphur)で口述→役場作成。2026年3月24日からP.K.様式で全国統一
  • 秘密証書遺言(第1660条)——密封して郡役場提出。実務では少ない
  • 口頭遺言(第1663条)——疫病・戦時・遭難など真の緊急時のみ

英語や日本語の遺言も有効性は認められますが、タイの裁判所で審理される以上、タイ語訳と認証を用意しておくと審理が早いです。「日本の公正証書遺言をすでに作ってあるから大丈夫」と思っておられる方も多いのですが、タイの銀行や土地局は日本の公正証書遺言をそのままでは受け付けません。タイで管理人選任の申立てをして命令書をもらう、というプロセスは日本の遺言があってもなくても必要で、日本の遺言はその審理の中で「本人の意思の証拠」として扱われる位置づけです。

2026年3月の郡役場遺言 標準化

2026年3月24日から施行された省令(Ministerial Regulation B.E. 2569)で、郡役場で作る遺言の様式が全国標準化されました(P.K.1〜P.K.3)。実体(誰が相続人か・法定相続分など)は変わっておらず、あくまで郡役場での作成手続きの様式統一です。既に有効に成立している遺言はそのまま有効です。

時効に注意

民商法典 第1754条により、相続人からの請求は被相続人死亡から1年が原則、除斥期間は最大10年です。「知らなかった」でも起算されるので、日本の家族が知らせを受けるのが遅れがちな海外相続では要注意ポイントです。実務では時効期間内に管理人選任の申立てをすれば救済されますが、放置していると口座の残高が国庫帰属するリスクが立ちます。

2. タイの銀行口座の相続——凍結から払戻しまで

タイの銀行相続は、家族が最初にぶつかる山です。ステップと期間感を先に見ておきます。

死亡登録から凍結、命令書、払戻しまでの流れ

  1. 死亡登録証(มรณบัตร/モラナバット)の取得——郡役場で発行。副本を必ず複数枚もらう。銀行・裁判所・大使館・陸運局・土地局それぞれで原本提出を求められます
  2. 在タイ日本国大使館 領事部への連絡——邦人援護担当が初動をサポート。戸籍上の死亡届もここが窓口
  3. 銀行への死亡通知 → 口座即凍結——ATMもオンラインバンキングも自動引き落としも一斉に止まります
  4. タイの裁判所で遺産管理人(Administrator)選任命令書を取得——次項
  5. 命令書を持って銀行の Estate Section へ。Administrator 名義口座に払戻し
  6. Administrator が相続人へ分配。海外送金はタイ中央銀行(BOT)の外貨送金規制に沿って行う

「口座が凍結される」というのが実務上いちばん厳しい部分です。生活費を配偶者名義口座と共通で使っていたご家庭でも、名義人の口座が止まった時点で光熱費・カード・ローンの引き落としが失敗し始めます。生前から夫婦それぞれ単独名義の口座を分けておくのは、そのための素朴で効く対策です。

遺産管理人(Administrator)選任の申立て

根拠は民商法典 第1711〜1727条。管轄は故人の最終住所地の県裁判所(バンコクは民事裁判所)。申立資格は法定相続人・利害関係人・遺言で指定された執行者で、外国人でも要件を満たせば管理人になれます。要件は20歳以上・無能力者でない・破産中でない、というシンプルなものです。

期間は、争いがない案件で申立てから90〜120日が標準。実務では書類の翻訳・認証の往復で遅れることが多く、半年見ておくと安全です。相続人間で争いがあると6〜18か月以上に伸びます。

必要書類のイメージは次のとおりです。

  • 死亡登録証(タイ語)
  • 故人と相続人全員の戸籍謄本+タイ語翻訳+在日タイ大使館の認証
  • 相続人の同意書(管理人指名について)
  • 資産リスト
  • 遺言書(あれば)
  • 相続人・管理人候補のパスポート写しと署名

日本の戸籍謄本は在日タイ大使館のレガリゼーションが必要(法務局のアポスティーユではダメ)という点は、初めて動く方が必ず引っかかるところなので、早めに手配してください。

相続人代表の出廷

プロベート審理は、相続人代表が1回はタイの裁判所に出廷することが求められます。バンコクの民事裁判所は英語通訳を手配してくれますが、費用は申立人負担です。家族が全員日本在住だと、この出廷のためだけにタイへ渡ることになります。

命令書取得後の払戻しにも時間がかかる

Administrator の命令書をもらってからも、銀行の Estate Section で書類確認と本人確認をやり直します。銀行によって差はありますが、命令書提出から払戻しまで20〜60日程度が一つの目安です。全体で見ると、死亡から実際に家族の手元にお金が戻るまでおおむね半年〜1年を見ておくと現実的です。

3. コンドミニアムの相続——「1年以内の売却」ルール

タイに投資でコンドを買われた方、退職ビザで住まいとしてコンドをお持ちの方は、ここが最も重い論点です。

相続そのものはできる、名義継続には条件

コンドミニアム法第19条により、建物の登記面積の49%までしか外国人名義にできません。相続そのものは可能ですが、相続人が名義を継続する(=土地局=Land Departmentで登記変更する)には、次のいずれかで「適格外国人」の要件を満たす必要があります。

  • BOI(投資委員会)の恩典を受けた投資家
  • 外貨をタイに送金し、その資金でコンドを購入したことを FET(Foreign Exchange Transaction Form、旧 Tor Tor 3)で証明できる
  • タイの恒久居住証明を持っている
  • その他、法律で認められた外国人カテゴリ

日本在住の家族が普通に相続するケースだと、これらのどれにも当てはまらないのが実情です。外貨送金の FET は「本人が生前に外貨で送金した」記録なので、相続人が日本にいるまま新規に用意することはできません。

1年以内の売却ルール(コンドミニアム法第19/7条)

「適格外国人」の要件を満たさない相続人がコンドを相続した場合、相続で取得した日から1年以内に売却しなければなりません。期限内に売却しないと、土地局長官が強制売却できるとされ、売却代金の5%が手数料として差し引かれます。

「1年」の起算は、実務上は裁判所の管理人選任命令で相続が確定した日から。プロベートに半年かかった後の1年なので、亡くなってから実質1年半ほど動ける計算にはなります。ただし、この間もコンドの管理費・固定資産税は発生し続けます。滞納があると登記変更のときに「Debt-Free Letter(管理費完納証明)」が出ず、そこで詰まります。

売却するか、住み続けるか

判断の軸は次のあたりです。

  • 配偶者がタイに住み続ける——配偶者が Administrator を兼務して名義変更へ。適格性の書類を揃えられれば継続保有できる余地あり
  • 相続人全員が日本在住・タイ移住予定なし——プロベート完了後、速やかに売却して現金化する方が損切りが早い。バンコク中心部の中古コンドはおおむね買い手がつく
  • 地方物件(パタヤ・チェンマイ・プーケット外周など)——買い手がつかず塩漬けになりがち。1年ルールの期限が近づいてくると、相場より安く売る羽目になりやすい

相続登記の登録免許税は通常2%ですが、相続の場合は0.5%に軽減されます。売却時は、特別事業税(5年以内所有で3.3%)や譲渡登録税(2%)、源泉徴収税が別途かかります。ただし相続で取得した場合、故人の保有期間から通算されるので、故人が長く持っていた物件は税負担が軽くなります。

4. 証券口座・株式・投資信託の相続

タイの SET(証券取引所)銘柄や投資信託を持っておられる方は、証券会社(Broker)が窓口です。銀行と同じく、死亡通知で口座凍結、Administrator 命令書で凍結解除、というのが基本フローです。

外国人相続人でも SET 銘柄の保有そのものは制限なくできます。ただ、相続人が日本にいるままタイの証券口座を新規開設するのは実務的にかなり難しいので、Administrator が売却して現金化してから日本へ送金するパターンが現実的です。

RMF・SSF・LTFなどの積立系ファンドについては、死亡による解約は税優遇の返還なしで扱われるのが原則です。生前解約だと「55歳+5年」の要件やペナルティが絡みますが、死亡ケースでは相続人が受け取れます。運用会社ごとに書類様式が違うので、Administrator の命令書がある前提で、運用会社ごとに個別に手続きします。

日本への送金は、BOT の外貨送金規制の対象です。相続を根拠にした送金は認められていますが、Administrator 命令書+死亡登録証+銀行所定の Outward Remittance Form が必須。金額が大きい(1回5万USD相当超など)と、追加の書類(相続関係証明・税務クリアランス)を求められることもあります。

日本側の税務は、相続で受け取ったお金そのものは所得税では非課税(相続税の課税対象)、そこから運用して得た利益は所得税課税対象、という切り分けです。

5. 車両・その他動産の相続

車両の名義変更(DLT/陸運局)

タイの車両は陸運局(DLT)で名義変更を行います。必要書類は Administrator 命令書+死亡登録証+車両登録証(Blue Book/Lem Thabien)+全相続人の同意書+身分証、といったところ。手数料は基本 155 バーツ+評価額の0.5%が印紙税です。

法律上は死亡から15日以内に名義変更するルールになっていて、過ぎると最大2,000バーツの罰金です。ただ、実務ではプロベートで半年かかるので、この15日は普通は守れません。命令書取得直後に速やかに動けば、罰金は情状酌量される運用が多いです。

貸金庫・貴金属・現金

タイの銀行の貸金庫は、Administrator 命令書提出+銀行係員立会いのもとで開扉して内容物リストを作り、Administrator が受領します。生前にご家族に貸金庫の存在と鍵の場所を伝えておかないと、「あるはずのものがどこにあるか分からない」で終わることがあります。

生命保険金は別扱い

タイで加入した生命保険は、受取人が指定されていれば受取人が直接請求できます(プロベート不要)。指定なしの場合は相続財産としてプロベート経由になります。ここは日本と同じ考え方です。日本で加入している保険は日本の保険会社に直接請求で、タイ側の手続きは不要です。

6. タイSSO(社会保険)からの遺族給付

タイの社会保険(SSO)に加入されていた方が亡くなった場合、遺族には別建てで給付が出ます。ここは僕が普段のお仕事で扱っている領域なので、少し詳しく書きます。

3ケースを整理して見るのがコツです。①現役加入中に亡くなった、②退職して55歳前に亡くなった、③終身年金の受給中に亡くなった、で受け取れるものが変わります。

葬儀費(Funeral Grant)——50,000 バーツ

まず、加入者が亡くなったときの葬儀費として50,000 バーツが支給されます。喪主に支払われる建付けです。要件は死亡前6か月以内に1か月以上の保険料納付と、死亡が業務起因でないこと。現役加入中でも退職後でも、この要件を満たせば対象になります。

①現役加入者(Section 33/39)が亡くなった場合の遺族一時金

現役の加入者本人(月給から保険料を天引き中の方)が亡くなった場合、葬儀費とは別に遺族一時金が出ます。加入月数に応じて次の金額です。

  • 納付36か月未満——遺族一時金の対象外
  • 納付36〜120か月——直近の給与の50% × 4か月分
  • 納付120か月以上——直近の給与の50% × 12か月分

受給資格者は嫡出子・配偶者・存命の父母で、この範囲に絞られます(兄弟姉妹は対象外)。複数人いれば按分です。

②退職して55歳前に亡くなった場合——3階建ての返還

退職後、まだ55歳になっていない段階で亡くなった場合、それまで加入者が積み立ててきた老齢分が3階建てで遺族に還付されます。

  • 本人納付分(給与の3%相当)
  • 会社納付分(同じく給与の3%相当)
  • 運用益(ผลประโยชน์ตอบแทน)

会社が積み立ててくれていた分と、その運用益まで戻ってくるところがポイントです。日本の厚生年金と違って、加入者本人が55歳で受け取れる予定だった一時金の枠組みを、そのまま遺族に前倒しで返す設計になっています。加入12か月未満だと会社分・運用益は付かず本人納付分だけの返還ですが、それ以上加入していれば3階建てで戻ります。

③終身年金の受給中に亡くなった場合——2024年の省令改正

加入月数が180か月(15年)以上あって、55歳から終身年金(Old-Age Pension)を受け取り始めた方が、受給開始から60か月(5年)以内に亡くなった場合、遺族に一時金が支給されます。

ここが2026年時点で情報がいちばん錯綜しているところです。2024年6月の省令改正で計算式が変わりました。改正前は「最終月額の10倍を一律支給」でしたが、改正後は「最終月額 ×(60 − 既受給月数)」になりました。5年分(60か月)の年金を保証する形です。

例えば月額5,250バーツの終身年金を20か月受け取ってから亡くなった場合、遺族には 5,250 ×(60 − 20)= 5,250 × 40 = 210,000バーツ が支給されます。既受給が少ないほど、残った月数分が大きく戻る計算です。60か月を超えて受給した後の死亡は、遺族への追加支給はありません。

古い日本語の解説記事だと、いまだに「残余期間の10倍」と書かれているものが見つかります。2024年6月以降の現行制度では、この10倍計算は使いません。相談の場面でも、改正前の情報のまま計算されていると受け取れる金額の見通しが大きくズレるので、注意してください。

申請主体と申請期限

どの給付も、申請主体は嫡出子・配偶者・存命の父母の優先順です。申請期限は死亡から2年以内。過ぎると原則却下されるので、遺族側でこの制度の存在を知っておくことが大事です。

日本にいる遺族が申請するときの実務

SSO の申請は原則タイの窓口で行います。日本からの郵送申請は受け付けていません。ご家族がタイまで来られない場合は、タイ在住の代理人(弁護士・行政書士・年金申請代行者など)に委任して申請する形になります。委任状は在日タイ大使館のレガリゼーション+タイ語翻訳が必要です。

受給までの期間の目安は、タイの銀行口座受け取りで1〜2か月、日本の銀行口座受け取りで3〜6か月(タイ大使館経由で書類のやり取りが入るため)です。

なお、退職後にまだ老齢一時金を請求しないまま亡くなられた方も、遺族が2年以内に請求すれば受け取れます。この点は忘れられがちです。制度全体と申請の流れは、別記事にまとめています。

タイの老齢年金 日本人も55歳からもらえます【完全解説】

7. 二重課税と申告——日本の相続税との関係

タイに残した資産(コンド・銀行預金・SET株・車両など)が、日本の相続税とどう絡むかを整理します。

タイ側の相続税

タイでは2016年施行の相続税法(Inheritance Tax Act)があります。タイ所在の相続財産のうち1億バーツを超える部分が課税対象で、税率は直系5%・その他10%、配偶者は非課税です。一般的な駐在員・在住者の相続でこの閾値を超えるケースはほとんどありません。多くのご家庭で、タイ側の相続税はゼロです。

日本側の相続税

一方、日本の相続税は、相続人あるいは被相続人が「日本の相続税の納税義務者」に該当すれば、全世界の財産が課税対象になります。詳しくは別記事にまとめていますが、要点は次のとおりです。

  • 親が日本在住のまま亡くなる場合——親の全世界財産が日本の相続税の対象。海外に住んでいる子どもがもらう分にも当然かかります
  • 本帰国後にご自身が亡くなる場合——タイに残しているコンドや預金も日本の相続税の対象
  • 「10年ルール」が効くのは、被相続人・相続人双方が10年超日本非居住のときのみで、実務ではかなり狭い

海外に住んでいれば日本の相続税はかからない?——よくある誤解と10年ルール【2026年版】

日タイ間に相続税条約はない

日本とタイの間には相続税を対象とする租税条約がありません(所得税に関する条約は1963年から存在)。二重課税が生じた場合の調整は、日本側の外国税額控除(相続税法第20条の2)で行います。ただし前述のとおり、タイ側で相続税がかかるケースは1億バーツ超の資産保有者に限られるので、この控除を実際に使う場面は稀です。

為替換算のタイミング

日本の相続税では、タイの財産は相続開始日(死亡日)のTTB(対顧客電信買相場)で THB→JPY 換算します。申告時点の為替ではありません。相続開始から申告まで数か月〜1年空くので、相続開始日の為替を早めに記録しておくのが実務的な備えです。

本帰国のタイミング

「タイに資産を残したまま日本へ本帰国する」ケースが、実は判断がいちばん難しいところです。本帰国して日本に住所を戻した瞬間から、あなたは全世界財産が日本の相続税の対象になる立場になります。帰国前後の全体像はこちらにまとめています。

タイから日本へ本帰国する前にやることリスト【お金編・2026年版】

8. 生前にできる備え

ここまで、亡くなった後にどう受け取るかを見てきましたが、生前にできる備えを一つ入れておくかどうかで、家族の負担が大きく違います。

タイでの遺言作成

バンコクの日系または英語対応の弁護士事務所で通常書面遺言を作るのが標準的です。相場感としては、シンプルなタイ資産だけの遺言で15,000〜30,000 バーツ、日本資産と両立てで執行者指定まで含むと50,000〜80,000 バーツ、弁護士事務所を Executor として指定する場合の年間管理料が別途10,000〜20,000 バーツ/年あたりが目安です。

2026年3月からは、郡役場(Amphur)でP.K.様式の遺言を作る手もあります。役場手数料は数百バーツで済みますが、書式がタイ語なので、日本人単独で完結させるのは現実的でなく、結局は弁護士にエスコートしてもらう費用がかかります。

日本の遺言との棲み分けは、タイ資産についてはタイの遺言、日本資産は日本の公正証書遺言、と分けるのがすっきりします。「全世界資産を包含する遺言」を1本にすると、どちらの国でも執行時に解釈争いになりやすいです。

資産リストを紙とデジタルで残しておく

家族が困る最大の原因は、「そもそも何がどこにあるか分からない」ことです。次のようなリストを紙とデジタル両方で残してください。

  • 銀行口座(銀行名・支店・口座番号)
  • コンドの権利証(Chanote/Chanod)保管場所
  • 保険証券とその保管場所
  • 証券口座(Broker名・口座番号)
  • 車両登録番号
  • 貸金庫の場所とキー
  • SSOの加入者番号(社会保険番号)

SSOの加入者番号は、遺族給付の申請にも本人の老齢一時金の申請にも欠かせないキー項目です。分からないと調べ直しに時間もお金もかかるので、必ず家族が見られる場所に控えておいてください。

共同名義・受取人指定の限界

日本には「死亡時受取人指定(POD)」という制度がありますが、タイの銀行口座にはこれに相当する仕組みがありません。ジョイントアカウント(Or/And Account)はありますが、名義人一方が亡くなると口座は凍結され、生存側もそのままでは触れなくなります。

現実解としては、夫婦それぞれ単独名義の口座を分けて持つ・生活費数か月分を配偶者名義口座に確保しておくのが素朴ですが効きます。生命保険の受取人指定はプロベート不要で機能するので、タイまたは日本で1本掛けておくと、遺族の当座の生活費・弁護士費用がすぐ動かせます。

9. よくある詰みパターン

実際の相談を受けていて「事前に押さえていれば違ったのに」と感じるパターンを、まとめておきます。

  • 遺言なし・Administrator候補もはっきりせず数年停滞——相続人が全員日本在住で誰もタイに来られず、Administrator 選任申立てが誰からも出ないまま口座凍結が続くケース。10年経つと国庫帰属リスク
  • コンドを日本在住の家族が引き継げず強制売却——1年ルールで期限が迫り、市場が悪い時期に相場より安く売る羽目に。生前にタイ在住のパートナー名義に整理しておけば避けられた
  • パスポートが失効していて手続きが止まる——本人のパスポートが失効していても、死亡登録は問題なくできますが、生前の資産購入・売却のFET書類との突合に時間がかかることがあります。有効なパスポートの写しをコピーで残しておくと安心
  • タイ語書類の翻訳・認証で時間切れ——戸籍謄本のタイ大使館認証は月単位で待たされます。時効(1年)や1年ルールを意識して、動き出しは早めに
  • SSO遺族給付の申請2年期限を過ぎる——葬儀費も遺族一時金も終身年金5年以内死亡の給付も、すべて2年以内の申請が原則。家族がこの制度の存在を知らずに期限を過ぎるのが最も多い詰み方
  • タイ人パートナーとの間の子の認知未了——認知手続きが済んでいない子は、タイでは相続権を主張しづらく、日本の戸籍にも入っていません。生前に認知を済ませておく、遺言で明示的に受遺者指定する、が対策

10. バンコクで実務相談できる相談先の探し方

「じゃあ、誰に相談したらいいのか」というところです。バンコクには日系または日本語対応可の総合法律事務所が複数あり、タイ資産の遺言作成・プロベート代理まで対応してもらえます。日本人向けの遺言サービスをブログや自社サイトで解説している事務所もありますので、料金体系や得意分野を見比べて選ぶのが現実的です。

英語対応でよければ、外国人向けのプロベート・遺言に慣れた事務所の選択肢がさらに広がります。バンコク商工会議所(JCC)や日本人会の会員名簿・掲示板から日系事務所の情報をたどるのが、最初の入口として素直な方法です。

行政窓口としては、次の2つが動く時の頼りになります。

  • 在タイ日本国大使館 領事部 邦人援護担当——電話 02-207-8502 / 02-696-3002。死亡直後の初動、大使館証明書発行、遺体・遺骨の搬送手続きの相談
  • 在タイ日本国大使館 領事部 戸籍・国籍担当——電話 02-207-8501 / 02-696-3001。死亡届の受理、戸籍手続き

タイのSSOの手続きは、社会保険事務所へ行き、加入者番号を元に記録を確認して申請する流れになります。日本にいる遺族が動きにくいので、タイ側の窓口業務に慣れた代行者・弁護士に委任するのが現実的です。制度の入口はこちらの記事にまとめています。

タイの社会保険 日本人ももらえる制度の全体像

まとめ

長くなったので要点を整理します。

  • タイに残した資産(銀行・コンド・株・車)は、タイの裁判所で遺産管理人選任命令書を取ってからでないと動かせない。書類認証・翻訳込みで半年〜1年
  • コンドを日本在住の家族が相続すると、1年以内に売却しなければならないルールがある。地方物件は特に売却の目途を早めに立てる
  • SSOの遺族給付は、①現役死亡=葬儀費+遺族一時金、②55歳前死亡=本人+会社+運用益の3階建て、③終身年金5年以内死亡=2024年改正後は「最終月額×(60−既受給月数)」。申請期限は死亡から2年
  • タイの相続税は1億バーツ超の資産だけが対象。日本の相続税は住所と国籍の条件次第で全世界財産にかかる
  • 生前の備えは、資産リスト・遺言・SSO加入者番号の共有の3点セットで、それだけで家族の負担が大きく減る

タイに10年、20年住まれた方の資産と家族関係は、日本国内で完結する相続とは違う流れになります。個別の状況で必要な手続きも変わりますので、判断が難しい局面では、バンコクの日系法律事務所と、国際相続に強い日本の税理士さんの両方に相談されるのが結局いちばん確実です。この記事は、そこにたどり着くまでの入口の地図として使っていただければ嬉しいです。

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※この記事は2026年7月時点の情報です。制度・税率・運用は変わることがあります。個別の判断は必ず弁護士・税理士に確認してください。

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